トップ農園について長盛園のあゆみ

農園について

第一章 新しい枝分かれの発見

 明治時代の初期までは、この島でも、平地は田んぼがたくさんあり、山には除虫菊、桃、さつまいもなどが植えられていました。家の周りには、牛、豚、鶏が飼われ、農耕用の馬もいました。島の中では、自給自足、今でいうと地産地消をしていました。

 みかんの苗木が入ってからは、徐々に田畑がみかん園に転換され、今では島の中に田んぼはすべてなくなりました。自給自足をやめて、換金作物のみかんだけを作るようになって数十年…

 私が生まれ、育った時代だが、島にはすばらしい自然がまだたくさん残っていました。子供のころからみかん作りを見ていたり、収穫の手伝いをしたりしていました。祖父が何事にも研究熱心な人物で、みかんの枝から新しい品種を見つけ、『俊成系温州』の名称で県内だけでなく、九州の新しい産地にたくさん植えられたと聞いています。祖父の功績が今でも私のみかん栽培への情熱として続いているような気がします。


第二章 慣行農業時代

 人類が農耕を始めた頃、原野を切り開き、水路を作り、無農薬・無肥料であったと思います。もちろん、農具も粗末なものだったでしょう。長い年月を経て、科学技術が進み、肥料・農薬も簡単に手に入るようになりました。人間の欲望はとどまるところを知りません。多肥・多薬によって、収穫量を上げる、いわゆる集約的農業です。

 ここ50年間、河川、水源、土地の汚染と計り知れない環境破壊が広がっています。農家の人々もその事は分かっていても、規格にあったものを作らないと市場は相手にしてもらえないから、仕方のないことだと諦めているのです。輸入農作物も、防腐剤、ポストハーベストの農薬までもが混入されています。

 近年、消費者の人々が食の安全、安心、環境問題についてやっと気づいてきました。でも、ほとんどの農家は変わらない、変われないと思います。いずれ世界的な規模で、食料不足が心配されます。


第三章 台風災害から学んだこと

 生涯忘れる事の出来ない日、それは平成3年9月27日。台風19号が襲来してきた日でした。

 毎年、2・3回は、台風の襲来を受けていましたが、その時祖母(当時88歳)が言っていた言葉を今も覚えています。「わしが生まれて、こんな台風の被害に遭ったことはないな」と、みかん畑のことを大変心配してくれました。

 島の南西斜面・平地は、海水による強風や浸水のため、みかん樹々が枯死し、港の船は壊れたり沈んだり、何百もの家屋は床上浸水などで、国の激甚災害の援助を受けました。我が家も、園地の1/3の樹々が枯死しました。先代から育ててきた何十年ものみかんの樹が、一瞬のうちに枯れてしまった時には呆然とし、これからどうしたらよいのか途方に暮れていました。

 そんな時、知り合いの人からの話で、有機農業への転換のきっかけを得ました。今までやってきた慣行農業の自然破壊を思い知らされました。土が死んでいては、みかんの樹は育つはずがありません。農家の利便性だけで農薬をかけて、害虫から樹を守り、多肥によって収量を増やすといった、一方的なやり方は間違っていたのです。樹は生き物であり、独自に生きる力を持っています。その恩恵を受けるために、何をしたら樹が喜ぶのか、みかんの樹と対話する事が大切だと分かりました。


第四章 有機栽培への決意と挑戦・苦悩

 平成3年の台風19号のお陰で、私の農業への取り組みに大きな変化をもたらしました。

 まず、3・4年間減農薬栽培に取り組んでいましたが、市場・消費者に認めてもらえず、中途半端なやり方であると反省し、1995年の春に思い切って無農薬栽培を始めました。春から秋にかけて、毎日のように草刈り等に明け暮れ、いい汗をかきました。土もしだいに柔らかくなり、歩いても気持ちのよい弾力さが伝わってきました。この時、「これが自分のやりたかったみかん作りだ!」と改めて思いました。

 しかし、自然はそう甘くはありませんでした。夏の高温・乾燥で、害虫が大発生し、売り物にならない程の真茶色のみかんが出来たり、カミキリ虫によって苗木が枯れたり、冷夏・長雨によって食味がよくなかったりと、なかなか思うようなみかんが出来てはくれませんでした。

 そんな時、島の大先輩から『韓国自然農法』の話を聞き、このやり方が島に住む私にとって最適だと思いました。島の周りには、たくさんの海藻があり、もちろんきれいな海水もあります。山には野草もあります。近くにある素材を使って、それらを発酵し、混合してみかんの樹の栄養剤、肥料が作れるのです。ちょっと視点を変えて周りを見れば、すばらしい素材がたくさんあり、思考や失敗もしながら、自分なりに研究すれば楽しい農業になります。

 これからも、自分の納得のいく農業を目指して、日々学んで行きたいと思っています。